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恩師・斉藤節郎  恩人・三谷編集部長  吾妻ファンよもやま話へ



古老よもやま話F より抜粋 


図版は準備中


古 老   よ も や ま 話   F (抜粋)
                 はかげ・たてなお
                 葉 影 立 直 
                   (官能SF作家)
                              初出:コミケットの「歩き方」第10巻、OB会発行、1998年08月14日発行

                              この回想録は、1998年6月頃のものです


 まいど、どうも。《鬱屈した酔っぱらいジジイ》が、精神のリハビリをかねて寄稿しているページです。
 私はかつてサークル参加者、今は一般参加者として、コミケットにかかわっている者です。
スタッフではありません。誤解しないでください。
 さて、今回のテーマは、『スタッフの悪行!』ですか?(ネタがないぞ)
 と言うわけで、大昔の話です。

★某幹部の悪行
               怨み★、感謝☆☆☆☆☆
 ヨネさん(仮名)が《吾妻ひでお先生》のファンだということは、一部では有名な話。
これは今から19年前の昔。コミケットが大田区産業会館を追い出されて、放浪の旅へ出発した頃の話です。
 79年12月。ヨネさんは『大日本吾妻漫画振興会』というサークルで、
『吾妻ひでおに花束を』という同人誌を編集しました。
 この本が、一部でとっても有名な吾妻まんが評論同人誌です。
『スタッフの悪行』と、いったいどんな関係があるのかってか?
 それはね、この本が私の人生を一転させ、転落への道を歩ませたからです。どう考えても、悪行だよォ。
でも本人いわく、
「あれは悪行じゃない。若気のあやまちだよォ(笑い)」とのこと。

★不幸のはじまり
 さて当時、私はとある松本零士FCに所属していたのですが、どうゆう訳か、
この本の通販案内ハガキが来たのです。
 理由は明白。松本零士FCが吾妻ひでおFCになっちゃたんですね。
今風の言葉で言うと、代表者が《ころんだ》のです。
 たしかハガキには、
「このたび、友人が吾妻先生の同人誌を作りました」と、書いてあったように思います
(このサークルの代表は、ヨネさんの友人だったのです)
 さてさて、浪人中だった私は、ついうかつにも通販を頼んでしまったのですね。
 まあ、それだけなら何事も起こらなかったのでしょう。
ところが、不幸というものは、どこに転がっているか分からない。
 ある日、奇妙なハガキが着いたのです。
 Yという女性からでした。ハガキには、
「《吾妻ひでお先生》のFCを作りたいから、集まりませんか?」とあり、
「ハガキは関西地域で『吾妻ひでおに〜』を買った人に出している」とのこと。
 そうなんです。ヨネさんか、その友人かは分かりませんが、購読者リストをYさんに教えたらしいのです
(だから最初に集まったメンバーは、みんなヨネさんの同人誌を買った人なんです)
 かくして純真だった私は、Yさんの口車に乗せられ、
『吾妻ひでおFC・シッポがない』の設立メンバーになってしまったのです(そうかなァ……?)
 このYさんが、後に有名になった阿素湖素子さんなのです
(だいぶ昔だけど、カタログに全国即売会マップを発表されたこともあります)
『シッポがない』は、毎月1回の集会と月刊の会報、年2回の会誌という活動内容で出発しました。
あの頃としては、ごく普通の健全なサークルです(そうなのか? 本当にそうなのか?)
 ところが平和な時代は、長くはつづきませんでした。
地方の弱小FCは、ヨネさんの陰謀に巻きこまれて、大変な状況に追いこまれていくのです(おいおい……)
【注】東京では、某幹部はよねやんと呼ばれています。でも阿素湖さんはヨネさんと呼んでいましたので、
   ここでは関西風の表現で統一してます。

★吾妻ブームの足音
 順序は前後しますが、吾妻ブームの火ダネは、月刊OUT(みのり書房発行)の、
『吾妻ひでお特集(78年8月号)』から始まっています(ヨネさんの吾妻評論も載っているぞ)
 その後、ペケやアゲインに吾妻先生のまんがが載り、美少女のカラーピンナップが付録についたりと、
ブームの仕掛けが着々と進行していきます。
【ペケは78年9月〜79年2月、アゲインは79年5月〜11月。みのり書房発行。
どちらも寿命の短い超マイナー雑誌。もちろんヨネさんも係わっている】
 あの当時のOUTは、アニメファンやまんがファンの必読書でした。ヤマトブーム、
アニメブーム、ロリコンブームなど、すべてはOUTから始まったことです。
 20周年記念資料集によれば、JUNEやペケを創った人たちは、
迷宮関係者(初期の準備会メンバー)だったとか。
 そう言えば、JUNEにも吾妻先生のまんがが載っていたよなァ……
 不思議なことに、私の趣味と迷宮関係者の趣味が一致しており、それらのマイナー雑誌を、
私は欠かさず買っているのです。
 そんな訳で、私の人格形成には、迷宮関係者の影響も少なくないのです。
 退屈な文章とは思わないでください。吾妻ブームとC19分裂事件は、裏表の関係で関連しているのです。
       《それは、さておき》
 なにっ?  そろそろヨネさん(仮名)の正体を明かせってかァ?
 いちおう公表されている範囲では、「知る人ぞ知るマンガ評論家で、フリーの編集者。著作も2冊あります」
 と、81年4月発行のコミケット新聞0号に書かれています。
なおこれは20周年記念資料集にも再録されているので、ここに書いてもイイんでしょうねェ?
 私が調べた限りでは、2冊の著作は、『戦後少女マンガ史』と『戦後SFマンガ史』で、
どちらも新評社から出ています。
 もちろん、今は絶版です。興味のある方は、古書店を探しましょうね。
 また3冊目の著作、『戦後ギャグマンガ史』も81年夏に出ています。
 なお、これらの本を編集されたS氏については『歩き方Z』に書いています。
 そうなんです。ミータカ国のハーフリータ号のマンガーシラン船長が、S氏なんです。
世の中ってのは、意外なところに、意外な人脈があるものです。

★話を戻して……
 おっと、話が脱線してしまいました。そう、吾妻ブームですね。
 最初はSFファンダムの中で起こった、小さな現象だったのです。
 SFファンが吾妻先生の『不条理日記』を評価して、星雲賞を与えたのです。79年夏のことです。
 79年12月に『吾妻ひでおに花束を』が発行されたときも、まだ大きなブームには、なっていませんでした。
 でも『スクラップ学園』(プレイコミック掲載、秋田書店刊)の連載開始とともに、
時代は不条理ロリコンSFへと向かいはじめます(私はミャアちゃんが好きだ)
 まんが専門誌ぱふで、『吾妻ひでおの世界』という特集が組まれたのが80年3月号。
 奇しくも、この号の書評欄には『戦後少女マンガ史』が載っています。
単なる偶然なのか、陰謀なのか。謎は深まるばかり。
 想像するに、この頃、アジマファン倍増計画という大陰謀が、川崎市民プラザにおいて、
着々と進行していたのではないでしょうか(後述のシベールの項参照)
 さて同じ頃、現在のコミケットで大勢力を誇る《エロアニパロ》が、OUTで芽生えました。
なお、この件に関しては、ヨネさんとの関連は不明です。

★悩ましのアルテイシア
 アニメキャラをヌードにして、しかもカラーピンナップとして雑誌に載せるという画期的な暴挙。
OUT80年3月号は、時代を一新した記念すべき雑誌です。
 全国のアニメファンが、カルチャーショックを受けたことは、言うまでもありません。
これ以後、同人誌にHなアニパロが増えていき、ロリコンブームやエロ同人誌の発生につながっていきます。
 ちなみに、アルテイシアというのは、機動戦士ガンダム(79〜80年放映)に登場した、
金髪の美少女・セイラさんです。

★増えるアジマニア
 さてさて、ロリコン系アニパロまんがの先駆けは、なんと言っても、
吾妻先生の『ラナちゃんいっぱい泣いちゃう』(OUT80年7月号掲載)でしょうか。
 いきなり、こんなまんががOUTに載るなんて、陰謀を感じてしまいますね。
 でもヨネさんはアゲイン休刊後、S氏に尻を叩かれつつ、『戦後SFマンガ史』を執筆していたのです。
 本の発行は80年8月で、カバーイラストと扉絵カットが吾妻先生です。
 かくしてアジマニア(吾妻ファン)は、ジワジワと増えていくのです。
『シッポがない』の設立も同じ頃で、関西のアジマニアも結集しつつありました。
 余談の余談ながら、ヨネさんはペケ休刊とアゲイン創刊の間(79年春)に、
『SFファンタジアEマンガ編』(学研発行)の編集に携わっていたようです。
 取材と、カラーページ・SFピクチャアハイライトの構成を担当されています。
また日本SF漫画史年表を、迷宮79が作成しています。
 注目すべきは、この本でもしっかりと吾妻先生のまんがを紹介していることです。
 誰が文章を書いているのかと思えば、な、なんと、高千穂遙先生ではありませんか。
 う〜む、吾妻パワーおそるべし。
【この他、78年頃には、徳間書店発行のイラスト集「萩尾望都の世界」や「大島弓子の世界」も編集されてます。
そうだ。「マンガ奇想天外」ってのも、あったよなァ】

★伝説のシベール
 ロリコンブームの先駆者。あるいはエロ同人誌の元祖・総本山とも言うべき、伝説の同人誌。
それがシベールです。
 参加者は吾妻先生と、先生の周辺にたむろしていた《こきたないオッサンがた》
【注】こきたないオッサンがた・という表現は、『ひでおと素子の愛の交換日記』(角川書店刊)
から引用させていただきました。  
『シベール』はコミケット11から17まで毎回新刊を出し、7号で休刊しました。
 休刊の理由は、ウワサが大きく広まり、コミケットでの混乱や通販希望の増加に 対応できなくなったからです。
 もちろん、吾妻先生の仕事が忙しくなってきたこともあるでしょう。
 さてさて、では誰がウワサを広めたのでしょうか?  私は証拠を握っています。
 もう分かっていますね。ヨネさんです。
 OUT80年12月号から始まった新連載、『病気の人のためのマンガ考現学』は、
第1回目がロリータコンプレックスでした。
 内容に問題はなく、立派な考察が書かれているのですが、つい筆が滑ったのでしょうか、
それともアジマ菌をバラ撒きたいという誘惑に勝てなかったのでしょうか、
「マンガ同人誌『シベール』はコミケットなぞで見かけたら買っておくこと。汚染度90%である」
と、書いてしまったのです(90%とはロリコン汚染度のこと)
 たった2行ですが、ロリコンオタクには充分な告知でした。
 いけませんね。こんなことを書いたのでは、
ロリコンオタクが川崎市民プラザに集まってくるのは当然じゃないですか。
 他にも原因はあるでしょうが、この連載が分裂騒動(81年の冬コミC19)の伏線でもあります。
 C18だかC19の反省会では、
「OUTで私腹をこやしただろ」と、罵声が飛んだとか、飛ばなかったとか。
【ちなみに、大混乱となった「ミャアちゃん官能写真集」が、81年の夏コミC18】
 やはり『シベール』は、私たち吾妻ファンだけで、こっそりと楽しんでいれば良かったのです。
 いや、もちろん。私もトチ狂って、こんなスゴイ同人誌があるのだと紹介したいばかりに、
自分の同人誌に無断転載したこともありますが……。
 それでもって、吾妻先生に迷惑をかけ、大泉まで謝りに行ったこともあります(あれは青春の思い出だなァ)

★ロリコン・ブーム
 80年末頃から、吾妻ブームに火がつきはじめました。
また『シベール』の影響を受けて、多くのロリコン同人誌……
 人形姫(千之ナイフ、破李拳竜)、美少女草紙(まいなあぼおい)、幼女嗜好(蛭児神建)、
のんき(みやすのんき)……などの、第1次世代が誕生しました。
 私が美少女学を創刊したのも、この頃です。その頃の私なんて、そりゃあもうナマイキで、
世間知らず。恥知らずなことや、愚かなことをいっぱいやっていました。
 同じ頃、ヨネさんの陰謀が成功したのか、吾妻先生がロリコンまんが家の代表として祭りあげられ、
『シッポがない』もブームに巻きこまれていきます。
 最初の騒動は、81年夏の『ミャアちゃん官能写真集』(吾妻先生の個人集)とDAICONV(SF大会)で、
吾妻ブームは83年夏のDAICONWまでつづきます。
【ヨネさんはOUTでロリコン特集まで組んでいるから、陰謀と言うよりも、ブームの仕掛け人の一人だわな】
 ロリコンブームは84年夏まで持ちましたが、冬とともに終息。時代はC翼へと移っていきます。
 この間、『シッポがない』と美少女学は、トンデモないことばかりやっています。かくして私の人生はワヤクチャ!
 詳しく書きたいけれど、それは『サークルの悪行』っていうテーマのときにしましょう。
 わはははは……。でも、最初のきっかけを作ったのは、ヨネさんの同人誌だよ。
        《それは、さておき》
 今回の原稿を書くにあたっては、思いつくまま記憶をたどり、同時に昔の雑誌を出してきて、
事実確認を取りました。
 ヨネさんは、時にそれとなく、また時には露骨に、吾妻ひでお先生をヨイショしつつ、
同時にコミケットの宣伝などもしていますなァ……。
 まだコミケットが、東京エリアの小さなイベントだった頃です。
 東京のコミケットが、日本のコミケットへと発展していく過程は、それなりに興味深いのですが、
それはノンフィクション作家やドキュメンタリー作家の方々にお任せいたします(私に期待しないでね)
 以上、悪行というテーマに便乗して、OUTとコミケットと吾妻先生の不思議な関係を書いてみました。
 ちなみのちなみに、80年代の吾妻まんがには、ヨネさんが出演している作品もあります。
もちろんコミケットネタもいくつかあります。興味のある方は、古書店を探してください
(スクラップ学園、幕の内デスマッチ、ぶらっとバニーなど):以下 略    (1998年6月13日)

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