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吾妻ファン(アジマニア)よもやま話


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恩師・斉藤節郎    恩人・三谷編集部長    恩人・米沢嘉博

まんが家・吾妻ひでお先生のファンクラブ仲間が亡くなりました。

追悼と回想のまとめページを製作しました。2019年04月23日

    
禁・無断転載、無断使用



「ななこ・ざ・すーぱーがーる21」(すーぱーがーるカンパニー刊)、「月刊OUT 1978年8月号&1981年3月号」(みのり書房刊)  



吾妻ファンよもやま話(復刻掲載) 
                                                はかげ・たてなお
                                               葉 影 立 直 (官能SF作家)
                     初出:ななこ・ざ・すーぱーがーる21、発行:すーぱーがーるカンパニー、発行日:2002年08月11日
                     この回想録の内容は、2001年6月頃のものです

 私が吾妻先生のまんがと出会ってから、もう20年以上が過ぎてしまった。その間には、さまざまなことや、ままざままざなこ
とがあり、その結果、私は官能SF作家という、妖しげな作家になってしまった。

 過去を思い出すのは恥ずかしいのだが、誰かが記録を残しておく必要もある。思いつくまま、書いてみよう。

★ふたりと5人
 永井豪の「キューティーハニー」がテレビで放映されていた頃だから、73年秋から74年春のことだと思う。当時の私はハレ
ンチまんがが好きで、永井豪のファンだったのだ(私は60年生まれ。当時は中学1年)

 しかしまんがよりもプラモデルと鉄道模型(HOゲージ)に熱中していた頃で、週刊まんが雑誌を読むことはなかった。好きな
まんがの、単行本だけを買うというファンだった。

 だから少年チャンピオンを買ったのも偶然で、それも1回きりだった。どの回だったかは忘れたが、私が《ふたりと5人》を読
んだのは、そのときが最初だ。

 可愛い女の子とエッチなギャグに、新鮮な驚きを感じつつも、まだ単行本を買うほどのファンにはなっていない。
 私の趣味が大きく変化したのは中3(75年)の夏。夏休みに、高校受験の勉強もサボって、鉄道模型のレイアウト(ジオラマ
模型)を完成させた後のことだ。

 以後は受験勉強モードに突入し、鉄道模型よりも少ない時間で楽しめる娯楽として、まんがに熱中していったのだ。
《ふたりと5人》の単行本を、初めて買ったのは75年秋。ちょうど第8巻が出た頃に、1〜8巻までをまとめて買っている。
【単行本を確認したところ、第1巻は11月30日発行の第7版、第8巻は11月25日発行の初版で、以後の巻はすべて初版で買
っている】

 記憶が定かではないが、受験勉強の合間に、吾妻先生のまんがや永井豪のハレンチまんがを読んでいたようだ。当時か
ら、私はエッチなまんがが好きだったのだ。


★司馬遼太郎
 もちろん、エッチな小説も好きだ。小学生の頃に、「国盗り物語」や「新史・太閤記」を読み、エッチな描写に興奮したこともあ
る。

 今になって思うには、私がエロまんが家にならず、エロ小説家になったのは、司馬遼太郎先生の影響が大きいのかもしれ
ない。

 ひょっとすると、高校時代に読んだSM雑誌の影響かもしれない。団鬼六、杉村春也、落合恵太郎の作品からも、私は影
響を受けている。

 以上は余談まで。

★松本零士
 76年の春。第1志望の高校に合格し、受験勉強から解放された時だ。私は運命の出会いを経験してしまった。私の人生を
一転させてしまった、トンデモナイまんが本を、古書店で買ってしまったのだ。

 松本零士の戦記まんが、「鉄の墓標」だ。
 それまで私は、サンケイの「第2次世界大戦ブックス」を熟読するほどの戦記マニアでもあったが、「戦場ロマンシリーズ」と
いう、まんがの存在は知らなかった。

 ところが「鉄の墓標」を読み、リアルなメカ描写に感動したことから、私は軟派まんがから硬派まんがまで、幅広いジャンル
を読むようになった。まさに、ディープなまんがヲタクだ。

 そんなわけで高校時代の私は、松本零士の大ファンだった。77年のヤマトブーム以後は、レコードやキャラグッズまでもを
買い集めるほどの、ヲタクになっていた。


★プレイ・コミック
 ヤマトブームの直前、76年頃の松本零士は、青年コミック雑誌で、エッチなSFまんがや4畳半まんがを描いていた。
 この頃のプレイ・コミック(秋田書店)には、「帰らざる時の物語」が連載中であり、吾妻先生の《やけくそ天使》も載ってい
た。

 その後、ヤマトブームの頃には「キャプテン・ハーロック」の連載が始まる。
 ところがヤマトブームと、松本零士ブームがブレイクした途端、松本まんがは黒ベタ宇宙に巻紙という、極端な手抜きまん
がに堕落してしまう。

 さすがの私も、松本ファンであることに嫌気がさし、80年には吾妻ファンに転向してしまう。《スクラップ学園》のミャアちゃん
にクラクラである。松本系美女から、吾妻系美少女に趣味が移ったのだ。


★ハーロック
 76〜77年頃だったと思う。月刊マンガ少年(朝日ソノラマ)か、プレイ・コミックで、松本零士FCが会員を募集していた。
 それが悪名高い(?)、あの「松本零士研究会・ハーロック」だった。後になってから知ったのだが、ヤマトの西崎プロデュー
サーと論争したほどの硬派サークルだ。

 77年の春頃、夏に公開される「劇場版・宇宙戦艦ヤマト」の宣伝のために、西崎は全国のヤマトFCや松本零士FCに協力
を頼み、会員名簿を集めていた。

「映画の宣伝チラシを郵送で送る」ための住所集めで、提供してくれたサークルには、ヤマト・オフィシャルFCの会報も贈呈さ
れたらしい(第1期分の会費が無料になるという特典だったかもしれない)

 ところが、「松本零士研究会・ハーロック」だけは名簿の提出を拒み、「チラシの郵送はサークルでやる」と主張したのだ。
 アマチュアのサークルが、企業の宣伝活動に係わることを嫌悪したかららしい。
 良く言えば純粋、悪く言えば教条主義のサークルだ。このサークルは、後に「大日本吾妻漫画振興会」に変化するが、吾妻
FCになってからも、その体質は同じだった。

 さて、高校生だった私は、そんなことは何も知らず、ハーロックの第2回目の会員募集に応じて、会員になってしまったの
だ。

 78年頃、松本零士ヲタクだった私は、まんがだけでなく、レコードやプラモデル、キャラグッズなど、幅広くコレクションを集め
ていた。まさにヲタクコレクターの元祖だ。

 ちなみに、これらのクレクションは阪神大震災をくぐりぬけて、今も健在だ。
 会員になった私は、キャラグッズのリストなどを作成して、ハーロックの会誌に投稿した。だけど、あっさりと没になった。
 まさか西崎プロデューサーと論争するほどの、商業主義嫌いとは知らなかったのだ。
 今でこそ、キャラグッズのコレクターにも一定の地位があるが、当時はまんがファンの異端扱いだったのだ。
 それが原因かどうかは不明だが、私はハーロックの要注意人物・神戸のヘンなヤツとして、ブラックリストに載せられたらし
い。

 しかもこれが後に、吾妻FCの右派VS左派の冷戦にまで発展してしまう。
 当時を思うと、私もヘンな高校生だったが、ハーロックの主催者メンバーもヘンな連中だったのだ。

 余談ながら、テレビのお宝鑑定に、「宇宙戦艦ヤマト」の超大型模型を持って出たのは私です。本名で出演したので、近所
中に私の趣味がバレてしまいました(笑)


★月刊OUT
 77年5月に創刊された、若者向けのヘンなヲタク雑誌(みのり書房)
 創刊第2号でヤマト特集を組み、大ヒット。以後はアニメブームの原動力となり、アニメ雑誌ブームのきっかけとなった。
 77〜80年頃のOUTは、アニメファンやまんがファンの必読書だった。ヤマトブーム、アニメブーム、ロリコンブームなど、す
べてはOUTから始まったことだ。

 もちろん私は、第2号から休刊の95年5月号まで、ずっと買いつづけた。奇しくも、OUTを買うきっかけがヤマトで、偶然に
も、この雑誌でも吾妻先生の作品に遭遇してしまう。

 78年8月号の『吾妻ひでお特集』だ。これが吾妻ひでおブームの始まりだったと思う。仕かけ人は、業界の黒幕、米沢嘉博
である(大笑)

 この時期、米沢嘉博はマンガ批評集団・迷宮の会誌・漫画新批評体系に、まんが評論を載せていた。『吾妻ひでお特集』で
は、阿島俊のペンネームで、吾妻評論を書いている。

 私の調査では、阿島俊のライターデビューが、このときである。米沢嘉博でのデビューはもう少し後になる(後述)
 さてその後、米沢や迷宮のメンバーは、OUTの増刊号を担当し、吾妻先生にまんがの連載を頼み、吾妻美女のカラー・ピ
ンナップを巻頭グラビアに起用していく。

 これらが吾妻ブームの下地になっていったのだと、私は分析している。
 ただしこれらの増刊号「月刊ペケ」「月刊アゲイン」は、寿命の短い超マイナー雑誌だった。けれども、マニアはみんな読ん
でいた(ペケは78年9月〜79年2月、アゲインは79年5月〜79年11月)

 コミケットの20周年記念資料集によれば、JUNE(JUN)を創った人たちも、迷宮関係者(初期の準備会メンバー)だった。
 そのためか、JUNEにも吾妻先生のまんがが載っていた。もちろん、私は持っている。竹宮恵子先生のカラー表紙のため
に、買っていたのだ。

 当時、私が愛読していたマイナー雑誌は、どうゆうわけか、どれも米沢や迷宮関係者が係わっていたらしい。
 なんのことはない、米沢や迷宮関係者の趣味と、私の趣味が一致していたのだ。また、そんな雑誌を創れる、良き時代で
もあったのだ。


 余談ながら、米沢嘉博はペケ休刊とアゲイン創刊の間(79年春)に、「SFファンタジアEマンガ編」(学研)の編集に携わっ
ている。

 取材と、カラーページ・SFピクチャアハイライトの構成を担当し、日本SF漫画史年表を、迷宮79が作成している。
 注目すべきは、この本でもしっかりと吾妻先生のまんがを紹介していることだ。誰が文章を書いているのかといえば、高千
穂遙先生だ。う〜む、吾妻パワーおそるべし。


 余談の余談ながら、私の投書も月刊ペケに載っている。OUTに載ったこともある。
 あの頃、私はお調子者のアウシスタンだった。ついでに言うなら、だっくす(今は情報誌ぱふ)も創刊からの読者だ。恥知ら
ずな投書も送った。私も若かったのだ。


★不条理日記
 かつて奇想天外(奇想天外社)というSF雑誌があった。松本零士のまんがが載っていたので、私は講読していた。
 だから別冊も欠かさず買った。《不条理日記》の初出は、別冊奇想天外・SFマンガ大全集パート2だ(78年12月10日発行)
《不条理日記》を読んで、私は吾妻先生の新たな魅力を見つけた。不条理ナンセンスの面白さだ。初めて読んだときは、こ
れがSFのパロディとは知らず、ただ純粋にナンセンスギャグとして楽しんだ。

 残念ながら、私は劇画アリスを持っていない。関東地区の自販機本だったため、神戸では売られていなかった。また当時
は、そんな雑誌の存在すら知らなかった。

 だから《不条理日記》の続編を読んだのは、単行本に収録されてからだ。SF大会の存在を知ったのも、このまんがでだ。
 だけど最初は、まさか実在するイベントだとは思わなかった(79年、私は浪人生)
《不条理日記》がマニアに注目されるのは、79年夏のSF大会で、星雲賞を受賞してからだ。これを境にして、吾妻ファンが増
えていったのだと思う。

 後のブームへつづくきっかけではあったが、この段階では、まだSFファンダムの中で起こった、小さな現象だったのだ。
 この時期、私は松本零士ファンから吾妻ファンに転んでおり、単行本はすべて買いそろえていた。
 そのようなときに、後々の災いになり、私の人生を一転させてしまう、ダイレクトメールが届いたのだ。

★吾妻ひでおに花束を
 まんが評論家の米沢嘉博が、若気の過ちで作ってしまった同人誌。
 79年12月。コミケットが大田区産業会館を追い出されて、放浪の旅へ出発することになった、あの悪夢のC13で販売された
らしい。

 浪人中の私は、大阪の即売会へは参加できても、東京へは行けなかった。だから詳細は知らない。
 ガンダムブームの影響で、会場が大混雑となり、次回の会場が見つからないという状況だったらしい。当時の関係者によ
れば、C13でコミケットは終了していたかもしれないと言われている。

 伝説として語り継がれている吾妻評論同人誌「吾妻ひでおに花束を」は、そのような状況の中で誕生したのだ。
 発行もとは「大日本吾妻漫画振興会」というサークル。前述の、あの「松本零士研究会・ハーロック」の関係者が、吾妻ファ
ンに転んだ結果、誕生したサークルだ。

 何の因果か運命か、かくして私のところへも、「吾妻ひでおに花束を」の通販案内のダイレクトメールが届いたのだ。
 私のことを要注意人物とマークしておきながら、通販案内は送ってくるのだ。送って来なかったら、きっと私の人生も平和だ
ったに違いないと思う。

 おそらく、今とはまったく異なった人生を歩んでいただろう。 しかし私も吾妻ファンに転向していたので、ついうかつにも、
「吾妻ひでおに花束を」の通販を頼んでしまった。

 それがきっかけで、私は奇妙なハガキをもらい、ドロ沼の吾妻ファンダムへと足を踏みこむことになった。ハガキが来たの
は、80年の春頃だったと思う。


★戦後少女マンガ史
 時間を少し戻す。
「戦後少女マンガ史」(新評社)が刊行されたのは80年1月。今や業界の黒幕として有名な、まんが評論家・米沢嘉博の単行
本デビュー作だ。

 なんで、私がこんな本を持っているかというと、「まんがヲタクだからだ」としか言えない。
 当時は、まだ米沢嘉博と阿島俊が同一人物とは知らなかった。だから雑誌の書評欄を読み、書店で注文したときも、米沢
嘉博が吾妻ファンだとは知らなかった。

 OUTを読んでいながら、また「吾妻ひでおに花束を」を買っていながら、ウカツな話である(大笑いだね)
 はっきりと、そうだと思ったのは、2冊目のまんが評論本、「戦後SFマンガ史」(80年8月、新評社)を買ったときだ。
 表紙が、吾妻先生だったのだ。またこの頃には吾妻FC「シッポがない」(後述)も誕生していて、東京の情報もかなり入手で
きるようになっていた。

 米沢嘉博がコミケットの代表だということも、この頃に知った。確か、2代目の代表に就任した直後だったと思う。
 私の認識では、米沢嘉博はまんが評論家で、OUTやアゲインでマニアックなことを書いているライターだったのだ。
 今もこの認識はかわらず、コミケットは評論家が道楽で主催しているだけだと思っている。
 米沢嘉博の読者であり、ファンである私としては、コミケットの主催なんかやめて、面白い評論を書いたり、マニアックな雑
誌を作って欲しいのだ。


★斉藤節郎
 知ってる人は知っている。ゴールデン街系のノンダークレ編集長。
 新評社に在籍中、米沢嘉博や中島梓を業界に引っぱりこんだ人物。「別冊新評」という評論雑誌を創った編集者でもある。
SF系やエロ系のマニアの間では有名。

「筒井康隆の世界」「北杜夫の世界」「星新一の世界」「松本零士の世界」「SF新鋭7人特集」や、エロ系の「三流劇画の世
界」「石井隆の世界」などが、別冊新評のシリーズで刊行されている。

 あるいは、あの米沢嘉博の尻を叩いて、3冊も本を書かせた編集者。「戦後少女マンガ史」「戦後SFマンガ史」「戦後ギャ
グマンガ史」の3冊が、今も米沢嘉博の代表作(80〜81年に刊行)

 松文館に移ってからは、エロまんが雑誌の編集長として、「月刊ハーフリータ」を創刊。私の才能を見いだして、業界に引っ
ぱりこんだ人物。

 エロ系では、ハーフリータ号のマンガーシラン船長として有名。今は高田の馬場で、自分の出版社を経営。エロまんがの単
行本を出している。

 斉藤氏と一緒に、ゴールデン街の夜明けを見た者は出世するという伝説もあるが、真実は不明。私も見たんだけどなァ
(笑)

 余談ながら、私のライターデビューは86年9月。ハーフリータ9月号。当時のペンネームは納谷太一郎。
 おっと、時間が進みすぎた。

★スクラップ学園
 79年末、プレイ・コミック(秋田書店)80年1月24日号から、連載が始まった。私のいちばん大好きな吾妻まんがだ。
 この作品をきっかけに、世の中は不条理ロリコンSFへと向かっていく(私はミャアちゃんが好きだ)
 まんが専門誌ぱふで、『吾妻ひでおの世界』という特集が組まれたのが80年3月号。
 奇しくも、この号の書評欄には『戦後少女マンガ史』が載っている。単なる偶然なのか、陰謀なのか。謎は深まるばかりだ。
 想像するに、この頃、アジマファン倍増計画という大陰謀が、川崎市民プラザにおいて、着々と進行していたのではないか
と思われる。状況証拠だけなので、確定はしない。でも容疑は濃厚だ。


            

左:「AZICON1ステッカー」(シッポがない製作)、中:ビデオ・オープニングコレクション(ゼネラルプロダクツ製作)
右:「AZICON1オープニングアニメカタログ」(スタジオラミ刊、1983年夏発行)


★シッポがない
 80年の春頃だった。ある日、奇妙なハガキが来た。
 Yという女性からだった。ハガキには、「《吾妻ひでお先生》のFCを作りたいから、集まりませんか?」とあり、「ハガキは関
西地域で『吾妻ひでおに花束を』を買った人に出している」と書いてあった。

 そうなのだ。あの、「大日本吾妻漫画振興会」は、通販申しこみ者の個人情報をYという女性に漏洩していたのだ。
 とはいえ、当時の私は普通のヲタクだった。そのままYさんの口車に乗せられ、「吾妻ひでおFC・シッポがない」の設立メン
バーになってしまったのだ(そうかなァ……?)

 このYさんが、後に有名になった阿素湖素子さんだ。
「シッポがない」は、毎月1回の集会と月刊の会報、年2回の会誌発行という活動内容で出発した。あの頃としては、ごく普通
の健全なサークル。

 まさかこのサークルが、私の人生を変えてしまうとは、まったく予想もできなかった(いや、だからね)
 ちなみに、集会の場所となった「神戸市勤労青少年センター」は、私が教えたアナ場だ。登録すれば、無料で部屋が使える
という、ヲタクの聖地のような場所だった。

 ところが平和な時代は、長くはつづかなかった。地方の弱小FCは、米沢嘉博の陰謀に巻きこまれて、大変な状況に追いこ
まれていったのだ(おいおい)


 余談ながら、76年に買った「鉄の墓標」から「松本零士研究会・ハーロック」〜「大日本吾妻漫画振興会」〜「吾妻ひでおに
花束を」〜「シッポがない」まで、運命の糸がつながっている。

 そう、あの春に「鉄の墓標」と出会っていなかったら、私の人生はもっと別の方向へ進んでいただろう。
 またそれによって、「シッポがない」も別の発展をとげただろうし、後の吾妻ブームも、ロリコンブームも違った形になってい
ただろう。

 フランス書院のナポレオン文庫だって、誕生していないかもしれない。そう考えると、私の存在も小さくないようだ。

★ラナちゃんいっぱい泣いちゃう
 OUT80年7月号に掲載された、吾妻先生のアニパロまんが。おそらく、プロ作家によるアニパロまんがの第1号と思われ
る。

 現代では版権管理が厳しく、もうこんなまんがは、商業誌には掲載されないだろう。
 当時、OUTはヲタクの必読書だった。
 まんがやアニメファンなら、誰もが読んでいるような、カリスマ雑誌だった。だから、そんなOUTに吾妻先生の作品がしばし
ば登場したことは、多くの若いまんが家たちにも影響を与えた。

 もっとも多くの影響を受けたのは、ゆうきまさみであり、あさりよしとうだろう。
 両者のギャグを見れば、ルーツが吾妻先生だとわかるはずだ。

★シベール
 ロリコンブームの先駆者。あるいはエロ同人誌の元祖・総本山とも言うべき、伝説の同人誌。
 参加者は吾妻先生と、先生の周辺にたむろしていた《こきたないオッサンがた》
【注】こきたないオッサンがた・という表現は、『ひでおと素子の愛の交換日記』(角川書店刊)から引用させていただきまし
た。  

《シベール》はコミケット11から17まで毎回新刊を出し、7号で休刊した。休刊の理由は、ウワサが大きく広まり、コミケットで
の混乱や通販希望の増加に対応できなくなったからだ。

 もちろん、吾妻先生の仕事が忙しくなってきたこともある。
 さてさて、では誰がウワサを広めたのだろうか?  私は証拠を握っている。
 もう分かっていますね。米沢嘉博だ。
 OUT80年12月号から始まった新連載、『病気の人のためのマンガ考現学』は、第1回目がロリータコンプレックスだった。
 内容に問題はなく、立派な考察が書かれているのだが、つい筆が滑ったのか、それともアジマ菌をバラ撒きたいという誘惑
に勝てなかったのか、

「マンガ同人誌『シベール』はコミケットなぞで見かけたら買っておくこと。汚染度90%である」と、書いてしまったのだ(90%と
はロリコン汚染度のこと)

 たった2行だが、ロリコンオタクには充分な告知だった。こんなことを書いたのでは、ロリコンオタクが川崎市民プラザに集
まってくるのは当然だ。

 やはり《シベール》は、私たち吾妻ファンだけで、こっそりと楽しんでいれば良かったのだ。
 いや、もちろん。私もトチ狂って、こんなスゴイ同人誌があるのだと紹介したいばかりに、自分の同人誌に無断転載したこと
もある……。

 それでもって、吾妻先生に迷惑をかけ、大泉まで謝りに行ったこともある(あれは青春の思い出だなァ)

★美少女学
 80年の年末。2浪中だったにもかかわらず、私が作ったロリコン同人誌。最初はコピー誌で、後にオフセット化。
 年6回刊という、驚異的なスピードで本を出しつづけていた。84年の休刊直前には、各号5百部も刷ったが、それでも足りな
いぐらいだった。

 ちなみに当時のコミケットでは、5百部も売れる同人誌は、超大手サークルだ。
 SF系創作まんが同人誌GREIF(グライフ)のルーツ的同人誌でもある。当時の仲間で、今でも活躍しているまんが家に
は、河本ひろし、石垣環、はるげにあ、などがいる。


★吾妻ブーム
 80年末頃から、吾妻ブームに火がついたように思う。正確なことはわからない。
 奇想天外・臨時増刊号「吾妻ひでお大全集」(81年5月15日発行、奇想天外社)が、爆発的に売れたことは間違いない。
「シッポがない」も「吾妻ひでお大全集」のFC紹介コーナーで全国デビュー。膨大な数の問い合わせが、阿素湖会長のもとへ
殺到した。

「シッポがない」は急速に拡大し、集会はいつも満員だった。この頃を境にして、サークルはお祭り好きのお騒がせ集団へと
変化していく。

 しかもSFファンの某M氏が、阿素湖会長をそそのかして、SF大会への企画参加までやることになったのだ。
 81年の夏。私は大学1年生。初めてのSF大会が、あのDAICONVだった。あの、武田康廣と岡田斗司夫の爆笑SF漫才
コンビが主催した、あのSF大会だ。


★ミャアちゃん官能写真集
 81年の夏といえば、《ミャアちゃん官能写真集》が出た年でもある。吾妻ファンなら、誰でも知っている、有名な同人誌だ。
 プレイ・コミックで宣伝したこともあって、販売場所となったコミケットC18・横浜産業貿易ホールは大混雑。サークル前に行
列ができた。

 今では珍しくもない行列だが、最初に出現したのは、《ミャアちゃん官能写真集》のときだったと思う。
 またプロ作家が個人誌を創り、コミケットで売ると商業誌で宣伝したのも、これが最初だ。吾妻先生は色々な面でも先駆者
だ。

《ミャアちゃん官能写真集》だけが原因ではないのだが、しかし混雑は予想外だった。
 そのためコミケットの運営を巡って、スタッフの間で意見が対立。とうとう分裂してしまった。
 C18だか、C19の反省会では、米沢嘉博は「OUTで私腹をこやしただろ」と、突きあげをくっている。
 その頃のOUTでは、米沢嘉博は連載を持っており、自分のページでコミケットの告知をやっていたのだ。
 スタッフの中には、連載の内容(ディープなヲタク知識)に反感を持っている者もいたし、今も満員なのに、さらに告知まです
ることに批判的だった者もいたようだ。

 このとき、残留側に加わったのが、ヲタクたちの集団。彼らは行列整理のスタッフとなり、後に混雑対応のルーツとなってい
く。今でも残党が、コミケット・スタッフとして、現場で働いている。

 当時の、混雑対応スタッフの中核は、明青会と仏滅会。ちなみに明青会の正式名称は「明るい青春の会」。蛭児神建のFC
だ。


 余談ながら、当時の関西では、「コミケットはプロが主催している即売会だから、アマチュア主催の即売会は、影響を受ける
べきではない」という意見もあった。

 私よりも年配の、COM世代のまんがファンたちは、OUTとコミケットの関係を白い目で見ていた。
 私はアニパロ好きで、OUTも好きだったが、先輩たちは、ファンロードと併せて嫌っていた。
 趣味の相違だけでなく、同人誌や創作まんがのありかたなど、もっと根源的な部分で、求めていたものが違っていたよう
だ。


★DAICONV
 東京のコミケットが《ミャアちゃん官能写真集》で大騒ぎになっていた頃、大阪はSF大会で盛りあがっていた。
 今も元気なふたり、武田康廣と岡田斗司夫のSFお騒がせコンビによる、SFファンのお祭りだ。
「シッポがない」も自主企画で参加し、吾妻ファンの部屋で素人劇をやった。私の役はスーパー三蔵だった。その代わり、オ
ープニングアニメは見られなかった。名作だったのに、残念。う〜む。

 ディーラーズ・ルームでは、《ミャアちゃん官能写真集》も売った。ヲタクが殺到してきて、委託分は、瞬時に売りきれてしまっ
た。けれども会員用は、別に確保してあったので、さして問題なし(笑)

 私の、初めてのSF大会は、それだけで終わった。でも、とっても面白かった。

★ロリコン・ブーム
 81年の末から、ロリコンブームがブレークした。これもOUTから火がついたブーム。
 言うまでもなく、米沢嘉博の陰謀だと思う。OUTでは特集を担当していたし、レモン・ピープル(82年2月創刊、久保書店)に
も執筆している。

 レモン・ピープルの巻頭カラーピンナップは、吾妻先生のイラストだ。しかも読者プレゼント用の、特製ポスターまであった。
 私もセッセとハガキを送って、吾妻先生のイラスト・ポスターを入手した。
 この他にも、様々な出版社からロリコン系のムックやまんが雑誌が刊行された。
 吾妻先生と内山亜紀がロリコンまんが家の代表として祭りあげられ、単行本が続々と出たように覚えている。
 同人誌では、《シベール》の影響を受けて、多くのロリコン同人誌……
 人形姫(千之ナイフ、破李拳竜)、美少女草紙(まいなあぼおい)、幼女嗜好(蛭児神建)、のんき(みやすのんき)……など
の、第1次世代が誕生した。美少女学も、そのなかのひとつだ。

 その頃の私なんて、そりゃあもうナマイキで、世間知らず。恥知らずなことや、愚かなことをいっぱいやっていた。吾妻先生
のところへ謝りに行ったのも、この頃だ。

 82年の夏は、TOKON8。吾妻ブームとロリコン・ブームで大騒ぎだった。
 SF大会の合宿では、巨大ミミズがねり歩き、真夜中の美少女お絵描きの部屋は異常な雰囲気だった。
 吾妻先生といしかわじゅんが丁半バクチをやり、吾妻先生がボロ負けしたのも、この合宿でのことだ。
 今にして思えば、最高の夏だった。翌年、83年の夏は、ふたたび大阪のSF大会。 DAICONWだ。
 赤井孝美のバニーガールが、画面いっぱいに暴れまくった、あのオープニングアニメの大会だ。

 

左:阿素湖ステッカー、中:あじこん2ステッカー、右:シッポがないステッカー(絵:吾妻ひでお・製作:シッポがない)
注:阿素湖とシッポがないはもと絵。販売されたステッカーは丸型。1982年〜1984年頃に製作販売


「シッポがない」は自主企画《あじこん》で、SF大会をパロディ化して大騒ぎ、81年のとき以上に、普通のSFファンの顰蹙を買
った。

 余談ながら、あの《あじこん》テープは私の監督作品だ。量産化にあたって、音量と音質が悪く、ギャグがウケなかったの
は、今でも残念に思っている。

 私の純正マスターテープからダビングしたテープなら、かなり聞きやすいのだが、数は少ない。
 この夏を境に、吾妻ブームもロリコンブームも一段落。「シッポがない」も2代目会長となり、私も大学の卒業研究で忙しくな
った。そして、あの失踪だ……(未完)

                                             (2001年6月15日)
参考文献:「コミケット20周年記念資料集」(コミックマーケット準備会発行)、「コミケットの歩き方」(OB会発行)、他

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