月刊ハーフリータ号・マンガーシラン船長の思い出 |
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図版は準備中 ★新評社で「別冊新評」を編集していた編集長。 葉影立直(納谷太一郎、現:山中狂人)の文才を最初に見出した人物。 私が出会ったのは、1986年6月頃に、三鷹の松文館ハーフリータ編集部で。 吾妻ひでおとロリコンまんがのブームが一段落して、セックスコミックが誕生しつつあった時代のこと。 詳細は「吾妻ファンよもやま話」や「恩人・米沢嘉博」に書いた通り。 当時の読者には、ハーフリータ号のマンガーシラン船長として記憶に残っているだろう。 「文章が書けるようだから、なんか書いてみろ」という、アバウトな依頼で、 月刊ハーフリータというセックスコミックで文章ページの連載を持つことになった。 これが物書きの世界に入るきっかけとなった。 その後、コミケットで上京するごとに編集部を訪れ、斉藤氏と酒を飲み、様々な助言をいただいた。 入門書以外で、物書きの基本を学んだのは後にも先にも斉藤氏からだけ。 だから私が恩師と呼べるのは、斉藤節郎氏だけだ。 |
月刊ハーフリータ号・マンガーシラン船長の人生 |
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図版は準備中 その頃に聞いたのだが、斉藤氏は大学卒業後に大手出版社に入社。女性週刊誌の編集者となったそうだ。 新人の頃、三島由紀夫の割腹自殺事件があり、雑誌の差し替え原稿を印刷所へ持っていったと話されていた。 女性まんが家の牧美也子氏(松本零士氏の妻)の担当をやったこともあり、零時社へ行ったこともあるとか。 その後、新評社へ転職し、「別冊新評」という季刊文芸評論誌の編集をおこなう。 この評論誌は、毎号1人の作家を特集。 評論や書評だけでなく、散逸していたコラムやエッセイも再録したので、資料的価値も高かったらしい。 ネット検索がない時代、「別冊新評」は文芸ファンや評論家に重宝されたようだ。 中島梓氏が新人評論家として活躍していた雑誌でもある。 また斉藤節郎氏は、米沢嘉博氏の「戦後少女まんが史」も編集している。 「戦後SFまんが史」、「戦後ギャグまんが史」とあわせて、いわゆる米沢嘉博氏のデビュー3冊が斉藤氏編集だ。 新評社解散後、松文館へ移り、マンガーシラン船長として「月刊ハーフリータ」の編集をおこなう。 この時代を知っている人はかなり多いはず。 異色の青年向けエロ雑誌として、それなりに売れていたのだが、セックスコミック追放運動の影響で廃刊。 (1991年7月号が最終号) 斉藤氏はふたたび転職。今度は自分の出版社、「虹の旅出版」を設立。 細々と単行本を出すことになる。 目を悪くされたと聞いていたが、今でも新刊がでているので、お元気なのだろう。 最近は上京していないので、会う機会もない。残念だ。 心残りなのは、新宿ゴールデン街の「ナベサン」に行けなくなったこと。 斉藤氏に渡辺英綱氏を紹介してもらい、斉藤氏とともになんどか飲んだ店だ。 閉店後も斉藤氏や渡辺氏ととともに夜明けまで飲んだこともある。 渡辺氏が亡くなられる前に、もういちど行っておきたかった。 物書きとして、なんとか作家デビューできたのは、斉藤氏の助言があったからだと思っている。 いつまでもお元気でいてほしい(2015年11月03日) TOPへもどる プロフィール1へ 恩人・三谷編集部長 恩人・米沢嘉博へ 吾妻ファンよもやま話へ |