フランス書院へ持ちこみに行った話 |
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図版は準備中 ★三谷編集部長(1980年〜2000年頃) フランス書院の偉い人。フリーライターだった私を、作家の道へ導いてくれた人物。 私をフランス書院へ送りだしてくれた方は、東京三世社のSMセレクト編集長。 1980年代後半、私は月刊ハーフリータ(松文館)でコラムを書きつつ、 月刊SMセレクト主催(東京三世社)のSM小説新人賞「団鬼六賞」に投稿をつづけていた。 ところが90年前後、団鬼六氏が病気で休筆されたことをきっかけに、団鬼六賞は休止。 やがてSMセレクトも休刊してしまった。 その頃、私は次の投稿先について相談すべく、東京三世社を訪問した。 持参したのは、同人誌版「熱砂の惑星」。 エロまんが家の“まいなぁぼぉい”主催の同人誌、「SM KITTY LAND 第2号」に掲載された作品だ。 休刊直後のSMセレクトの編集長にお会いして、「若者向けのSFポルノを書いていこうと思います」と言うと、 「いずれはそのような小説が売れる時代が来るだろう」という返事だった。 次に訪れたのが、グリーンドア文庫(かなり前に消滅) ここでは「新人は扱わない。デビューしてから来てくれ」と、あっさりと追いかえされてしまった。 最後に訪れたのが、フランス書院。まだフランス書院が新人賞を創る前のことだ。 このときに会ってくださったのが、三谷編集部長。 東京三世社の団鬼六賞に応募していたことや、グリーンドアでの対応を話すと、 「ウチは新人でもかまわない」と、笑って迎えてくださった。 私の才能を見ぬかれたのか、それとも「奇貨おくべし」と思われたのかはわからない(笑) このときに言われたのは、 「女性を徹底的に落とせ、不幸にしろ、陵辱しろ」ということ。それが当時の売れスジ路線であった。 そして3冊の文庫を渡された。すべて綺羅光先生の作品。 「女教師・私生活」、「女教師・恥辱の旋律」、「女教師牝奴隷」だったと思う。 |
デビューはしたものの、担当編集者と相性があわず・・・ |
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図版は準備中 こうして私はデビュー作を書きはじめることになった。なぜかデビュー3作目となった「快楽島の夜会」だ。 色々とあって、私は93年秋に、「熱砂の惑星」(フランス書院ナポレオン文庫)でデビュー。 いきなりヒットでアニメ化という幸運に恵まれた。 しかし担当編集者と相性があわず、納得できる作品は持ちこんだ「熱砂の惑星」だけだった。 他に納得できる作品も書けず、妥協の作品を数点刊行しただけで終わった。 担当編集者はかなり人格に難のあった人物のようだ。私以外の作家ともトラブルを起こしたらしい。 担当編集者の解雇とともに、私もフランス書院との縁が切れ、現在に至っている。 三谷氏のことは良い思い出もあり、恩人と思っている。だが担当編集者には良い思い出がない。 三谷氏のご恩にむくいるべく、もっとヒットを出したかった。 力不足で申し訳なかったという思いでいっぱいだ。 また東京三世社のもとSMセレクト編集長からも、 デビュー直後に仕事(書きおろし単行本)の依頼をいただいたのだが、ついに書けずに終わった。 この方にも不義理をしてしまっている。申し訳ないことだ。 担当編集者がもう少しマシな性格か、あるいは阪神淡路大震災で被災しなければ、 私の人生もまた違ったものになっていただろう。 TOPへもどる プロフィール1へ 恩師・斉藤節郎 恩人・米沢嘉博 吾妻ファンよもやま話へ |